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花ノ雲

桜が咲くとなぜ心が湧きたつのだろう。自分に問いかけても答えは出ない。心が湧きたつから、湧きたつのだとか言いようがない。DNAに組み込まれているんだよという人もいるが、そうかもしれない。

数年前、曽根丘陵の丘にある桜をスケッチしようと早朝に出かけたことがある。蕾の時期から満開になるまで何度か通いスケッチした。

通っていくうちに、桜には桜の精が宿っている。精霊が花を咲かせていると思うようになった。冬の間大地に潜んでいた精霊は、春になり桜の根元に集まり、そして時期を待っていたよう桜の幹の細胞を充たし、駆け上がり、枝々の先端に行き着き、じっと放出の時期を窺う。蕾に宿った精霊たちは開花とともに一斉に天空に解き放たれ、舞い踊り出る。満開の桜は精霊と共にある。精霊が盆地の春の大気に満ち満つる。いずれまた大地に帰って休眠するに違いない。そう思うようになった時、私のスケッチはとてもちっぽけで描くに値しないように思った。

月のある桜も妖艶であった。やはり精霊と共にあった。何とか版画にしたいと挑戦し、彫り、刷っては見ても思うようにはいかなかった。

桜と言えばやはり吉野。吉野の桜を見たい、出会いたいと願っていた。幸いにもこれまで三度満開の桜に出会った。

最初見たのは中千本の吉水神社入り口から中千本から上千本の尾根を這い上がるように咲いた桜だ。「なんと豊かな桜色のハーモニーだ」「なんと柔らかく奥深い色合いだろう」今まで出会ったことのない体験で、一撃をくらった。

二度目は、桜吹雪の中にいた。心が狂喜した。何とか形が留められないかと思いカメラのシャッターを押した。素人の悲しさ、私の欲するものは全く映ってはいなかった。しかし、脳裏にはいまだにしっかりと記憶を留めている。

三度目は大阪に居た息子を妻と訪ねた折、桜の小行脚をしようと大阪造幣局の桜の通り抜けを堪能し、翌日吉野へ向かった。

奥千本から上千本、中千本、下千本への下り坂を歩いた。ちょうど上千本や中千本の桜が盛んな時であった。歩きながら、平安時代から植え続けられ、育まれ、祈りと共にあった桜に想いを巡らせた。到底今の私には桜の奥深さは描けないと思った。

帰ってきてから、スケッチを見ているうちに奥千本の下りの休憩所で眺め、一望した中千本の景色を版画にしたいと思うようになった。桜の奥深さを描けないまでもあの情景を残したい、あの時、足下に拡がっていたあのおだやかな春の景色を記録したい。柔らかな空気の中を天女のように舞い踊りながら下れたらなんと素敵だろうと思ったあの気分を何とか版画に残したいと思った。